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コンサート視聴 #13 / 私のアダージェットはどこへ?
視聴して参りました。


曲目は、

・マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調 ― アダージェット

・マーラー/リュッケルトによる5つの歌

・チャイコフスキー/交響曲 第5番 ホ短調 作品64



指揮:ディエゴ・マテウス

ソプラノ:ケイト・ロイヤル





私にとってマーラーの アダージェットといえば
ヴィスコンティさんの『ベニスに死す』。



このイメージを崩してくれた演奏でした。

聴きながら思いました。
「私の知っているアダージェットはこんなんじゃ無いっ!」
って。


ソプラノは「細い」感じでした。



チャイコフスキーの5番、
「爆演」とでも申しましょうか。


よくいえばダイナミックで弾んでいるのですが、
私の趣味ではありません。


エルシステマ出身の指揮者という感じでした。



この方とは曲の捉え方が異なるようです、私。





コンサートマスターが舶来の方でした。

Mさんの仕種を見れないのは精神衛生上
とても良かったです。





私の知っている『アダージェット』です
マーラー - 交響曲第5番~第4楽章





























指揮:ディエゴ・マテウス

政府支援のもと、青少年に無償で楽器と音楽指導を提供する南米ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ(El Sistema)」から羽ばたいた俊英が、N響定期に晴れのデビューを飾る。1984年生まれ。ヴァイオリンを学んだ後、エル・システマの基幹団体であるシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(現シモン・ボリバル交響楽団)に所属。2008年3月、プエルトリコでのカザルス音楽祭で同オーケストラを指揮し、国際的な脚光を浴びた。同年秋には、アバドがボローニャに創設したモーツァルト管弦楽団にデビュー、翌2009年には首席客演指揮者に任命される。パッパーノのピンチヒッターとしてローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団のツアーを任されるなど、イタリアを拠点に欧州での活動が本格化した。2011年にはヴェネチア・フェニーチェ歌劇場の首席指揮者に就任、サイトウ・キネン・オーケストラからも招かれた。2013年3月、初めてN響を指揮。同年夏からメルボルン交響楽団の首席客演指揮者としての活動も始まっている。ドゥダメルと並び称されるベネズエラの若きマエストロ、さあ出番である。



ソプラノ:ケイト・ロイヤル

イギリスで最も注目されている若手ソプラノの1人。ロンドン生まれ。ギルドホール音楽演劇学校やナショナル・オペラ・スタジオで学ぶ。2004年にキャスリーン・フェリアー賞を受賞。これまでに、グラインドボーン音楽祭で、《ばらの騎士》元帥夫人、《魔笛》パミーナ、《カルメン》ミカエラ、《ドン・ジョヴァンニ》ドンナ・エルヴィーラなどを歌う。コヴェントガーデン王立歌劇場ではアデス《テンペスト》のミランダを演じる。サイモン・ラトルが彼女の歌声を高く評価し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で、《魔笛》、シューマン《楽園とペリ》、フォーレ《レクイエム》、マーラー《交響曲第2番「復活」》などの独唱者に起用(《復活》はCD録音もある)。3枚のソロ・アルバムをリリースしている。









マーラー(1860~1911)
交響曲 第5番 嬰ハ短調 ― アダージェット (約11分)

 マーラーはウィーン宮廷歌劇場音楽監督の地位にあった1901年夏、ヴェルター湖畔マイヤーニヒの作曲小屋で《亡き子をしのぶ歌》の第1、3、4曲、《リュッケルトによる5つの歌》のうちの4曲、民謡テキスト集『子供の不思議な角笛』に基づく歌曲群の最後の1曲となった《少年鼓手》、そして《交響曲第5番》の第1楽章から第3楽章を作曲した。この創作力あふれる夏を一緒に過ごしたバウアー・レヒナーに、新しい交響曲は4楽章の予定だと語っていたマーラーだが、翌1902年の秋、それは全5楽章の作品として完成した。
 交響曲は、第3楽章のスケルツォを中心に、第1、2楽章と第4、5楽章のそれぞれを音楽的なまとまりと捉えた3部構成である。当初の計画をこのように変更した背景には、1901年11月7日に出逢い、たった1か月余りで婚約に至ったアルマの存在があると言われる。マーラーを高く評価していた指揮者のメンゲルベルクは、自分のスコアに次のように書き込んでいる。「この〈アダージェット〉は、マーラーからアルマに宛てた愛の宣言だったのだ!彼は手紙の代わりに彼女に〈アダージェット〉の手書きの楽譜を贈った。彼女はその意味を理解して『どうぞいらして!!!』と書き送った。2人はそう私に話してくれた」。この通りなら、〈アダージェット〉はアルマと知り合った11月頃に書かれたことになる。最終的に〈アダージェット〉は第4楽章として配置された。
 アダージェットは3つの部分からなり、ハープと弦楽5部のみで演奏される。叙情性を湛(たた)えた官能表現の極みともいうべきその音楽には、同時期に作曲された《リュッケルトによる5つの歌》の要素が姿を見せる。また細かく揺れ動く中間部の旋律には、ワーグナーの《楽劇「トリスタンとイゾルデ」》で題名役の2人が視線を交わし、心を通わせる瞬間に現れる「まなざしの動機」との類似性が指摘される。

作曲年代:《交響曲第5番》としては1901年夏、マイヤーニヒで着手。1902年秋完成。1905年の出版後も改訂を重ねる
初演:《交響曲第5番》全曲の初演は1904年10月18日、ケルン。ギュルツェニヒ管弦楽団の演奏、作曲者自身の指揮で
(山本まり子)








マーラー(1860~1911)
リュッケルトによる5つの歌 (約19分)

 歌曲集《亡き子をしのぶ歌》と同じフリードリヒ・リュッケルト(1788~1866)の詩による歌曲だが、こちらはそれぞれ別の機会に単独で作られたもので、連作歌曲集ではなく、実際に演奏される曲順も、演奏者の好みによって様々である。

〈わたしの歌をのぞき見しないで〉 元の詩の素朴なコンテクストでは、恋人に捧(ささ)げる詩を書いている若者が、詩の完成前にそれを彼女に見られるのを嫌がっているようだが、作曲者グスタフ・マーラーは未完成作を見られることに対して創作者一般が抱く嫌悪の表現というように、詩をより広く解釈している。無窮動(むきゅうどう)風のいたずらっぽい、少し不安げな動きは、歌を作ることが蜜蜂(みつばち)が巣を作る様にたとえられているせいだが、出来上がったら詩=蜜の「味をみてごらん」という性的な含意を秘めた最終行の俗っぽい言葉で、一挙に元の民謡調の世界に引き戻されてしまう。
〈ほのかなかおりを〉 詩は語呂合わせの技巧的な遊びだけが生命の、凡作と批判されてきたが、ちょっと時代に先んじたマラルメ風のマニエリズムがあって、必ずしも凡庸な詩とは思わない。逆に誰もが一致して認めるのは、マーラーがこの詩からマニエリズムをさらに増幅させるような、繊細きわまりない工芸品を作り出したことだ。
〈真夜中に〉 各節がすべて「真夜中に」ではじまり、かつ終わるように作られた、故意に単調さを狙った詩。詩では最終節での突然の信仰への帰依に説得力が欠けているが、作曲者はそうした詩の問題をわざとそのまま放置して作曲したように思われる。つまり、「機械じかけの神」という言葉通りの神様の使い方にアイロニーを浴びせるための作曲というのが、大方のマーラー研究者の見方。弦楽器が全く用いられず、管楽器と最後にアルペッジョを添えるピアノ、ハープだけの伴奏で、曲尾には《交響曲第5番》さながらの古風なコラールが奏でられるという特殊な楽器編成も、この解釈を裏付けているようだ。
〈わたしはこの世に忘れられ〉 詩そのものはひねりがなく、あまりにも状況をストレートに説明しすぎているが、音楽が詩の喚起力の乏しさをうまく補完して、歌曲としては名作の誉れ高い作品になった。《交響曲第5番》のアダージェット楽章に通ずるような、俗世を離れたユートピアを描く音楽の典型である。曲頭、イングリッシュ・ホルンが吹く深々とした五音音階風の旋律が様々に変形されて戻ってくるが、歌声部の要所要所を管楽器がエコーのように繰り返したり、逆に歌の旋律を先取りして示したりするのが、曲に立体的な奥行きを与えている。
〈美しさを愛するのか〉 新妻アルマにプレゼントされた作品。彼女に、作曲することだけはやめてくれと訴えた1901年12月19日の長文の手紙には「もし君が醜かったらと考えてごらん」というかなり失礼な一節、すなわち、取り巻きたちが君をちやほやするのは、君が美人だからに過ぎないという一節が含まれていた。それを思い出せば、アルマはこの曲が自分に捧げられた理由を直ちに了解したであろう。上記のような特殊事情のせいで、この曲のみ作曲者自身による管弦楽伴奏稿が存在せず、通常演奏されるのはマックス・プットマンの管弦楽編曲による版である。

作曲年代:1901~1902年
初演:1905年1月29日、ウィーン。作曲者指揮、宮廷歌劇場管弦楽団員、アントン・モーザー(バリトン)、フリードリヒ・ヴァイデマン(バリトン)。〈美しさを愛するのか〉のみは1907年2月8日
(村井 翔)








チャイコフスキー(1840~1893)
交響曲 第5番 ホ短調 作品64 (約50分)
 ピョートル・チャイコフスキーの《交響曲第5番》(1888年)は、彼の6つの交響曲のなかでもとりわけ色彩的な旋律に満ちている。曲が書かれたのは、作曲家の生涯で最も順風満帆な時期のこと。1880年代、チャイコフスキーは多産な国民的作曲家として押しも押されもせぬ存在になっていた。外国でも、1878年から毎年行っていた演奏活動によって、ロシア人作曲家としても最も人気のある作曲家になっていた。だが演奏活動に忙殺されすぎていると考えたチャイコフスキーは、1885年、外国への演奏旅行を一時中止する。1888年4月には静かなフロロスコエ村に引っ越し、作曲に集中する環境を整えた。《交響曲第5番》はここで書かれている。
 ところでロシアにおいてロシア人のいわゆる西洋音楽の音楽家が台頭してきたのは1770年代のことである。はじめは教会や宮廷、貴族に雇われた専属音楽家であった。やがて自立した音楽活動を生業(なりわい)とする職業音楽家が誕生するのだが、この間に約100年の時を経ている。チャイコフスキーはその最初期のひとりにあたる。演奏活動や出版の報酬に加えて、1878~1890年の間はフォン・メック夫人から毎月500ルーブルという破格の支援を受けていた。かくして1880年代後半、チャイコフスキーは自他共に認める不動の職業音楽家として、音楽活動に勤しめる環境にあったのである。
 さて《交響曲第5番》で試みられた新機軸のひとつに、モットー主題が挙げられる。ロマン派の音楽においてモットーとは全体を統合したり特定の意味を担わせたフレーズや動機であったが、チャイコフスキーはこれをより長い旋律に拡大し、全楽章の要所要所に回帰させた。これは、1867年にモスクワで出会ったベルリオーズの《幻想交響曲》(1830年)の「固定楽想」に感化されたもの。だが《幻想交響曲》が物語に即した標題音楽で、モットー主題が作曲家の恋慕する女性を表す「固定楽想」であったのに対し、チャイコフスキーの《交響曲第5番》にこうした特定の意味対象は定められていない。
 モットー主題を楽章間で循環させることは《交響曲第4番》(1877年)の第1、4楽章で試みていた。やがて壮大な「標題交響曲」《マンフレッド》(1885年)で悲劇的な主人公マンフレッドを表す「固定楽想」として全楽章で用いた後、標題のない交響曲でモットー主題を全楽章に展開させたのがこの《第5番》であった。珠玉の旋律、楽想がめくるめく展開をするなか、モットー主題が作品全体を統合し、さらに動機労作や調性の仕掛けによって、圧倒的なダイナミズムが終楽章で響きわたる。
 なおこの作品には、1887年8月~1888年4月に書かれたと考えられるごく短い構想メモがある。そこでは第1楽章序奏に寄せて「運命への服従」などと書かれている。第2楽章の構想として2声の音楽スケッチ(2小節)も書かれ、その譜例を上下にはさむ形で「一筋の光」「下からの返答:いや、希望はない」とあるが、実際に完成された第2楽章とは異なる。いずれにせよ、作品は非常に均整のとれた形式で書かれており、1888年6月に作曲家がコンスタンチン公爵へ宛てた手紙に「この交響曲に標題はありません」とあるのも頷(うなず)けるように、作品に明確な標題性を読みとることは難しい。

第1楽章 アンダンテ、4/4拍子─アレグロ・コン・アニマ、6/8拍子、ホ短調、ソナタ形式。序奏でモットー主題が提示される。副主題提示部では第2主題のほか2つの魅惑的な主題がニ長調で現れ、主調とこれらとの調性関係が、第1楽章(ホ短調)─第2楽章(ニ長調)の展開を導きつつ、さらに第4楽章の内容も暗示している。
第2楽章 アンダンテ・カンタービレ、コン・アルクーナ・リチェンツァ、12/8拍子、ニ長調、3部形式。導入部はモットー主題の一音型からくるものだが、《幻想序曲「ロメオとジュリエット」》の冒頭と酷似している。これらのコラール的な和声進行は作曲家が好んだ祈りの響きである。
第3楽章 ワルツ:アレグロ・モデラート、3/4拍子、イ長調、3部形式。チャイコフスキーは交響曲では終楽章の前の楽章にスケルツォを置くことを常としていた。そのためスケルツォではなくワルツとしたこの第3楽章は、非常に特異な存在である。スケルツォの性格は中間部に込められている。ワルツ冒頭、低声部の伴奏に1拍目の響きがないために感じる一瞬の空虚感は、スケルツォの諧謔性(かいぎゃくせい)へのかすかなオマージュ。モットー主題はコーダでクラリネットとファゴットによって奏される。
第4楽章 終曲:アンダンテ・マエストーソ、4/4拍子─アレグロ・ヴィヴァーチェ、2/2拍子、ホ長調、ソナタ形式。第1楽章冒頭の哀愁に満ちたモットー主題が、第4楽章冒頭、祝祭的な雰囲気に包まれて登場する。第1楽章にはじまるホ短調とニ長調の拮抗を経て、最終的にホ長調へと昇華する作品全体の志向性が、壮大な響きによって示される。

作曲年代:1888年5月~8月26日(ロシアの旧暦では14日)
初演:1888年11月17日(ロシアの旧暦では5日)、作曲者自身の指揮、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー協会演奏会
(中田朱美)



















by tukasa-gumi | 2015-12-10 01:36 | 音楽 | Comments(0)
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