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by tukasa-gumi at 00:44
こちらは震度5ということ..
by levin-ae-111 at 19:25
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コンサート視聴 #8 / おしゃべりなコントラバス奏者
先日、コンサートに行って参りました。




演奏曲目は



・ベートーヴェン「交響曲 第6番≪田園≫」



・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より「前奏曲」

・「それはほんとうか」 「イゾルデの愛の死」



・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より
 「親方たちの入場」「ポーグナーのことば≪あすは聖ヨハネ祭≫」



・「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の「第1幕への前奏曲」



セバスティアン・ヴァイグレさんです。








何だろう?


聴き手が悪いのか弾き手が悪いのか、
とっても雑音が多く静かに聴いていない人が多い。


田園の後半になってやっと客を魅了したのか
静かになり曲も力強さが出て魅せられる。







しかしコントラバスの舶来人。


舞台に上がってから
ずーーーーっとおしゃべりに夢中。



隣の日本人が最後には嫌がっているのが読み取れる。


(指揮者から握手を求められ、にやけた笑顔が嘘っぽく見えました)



バス(ワーグナー)のヨン・グァンチョルさん、
声はとっても良いのだけれど悲しいかな
私が知っている歌曲ではない・・・


従って感動がイマイチ 残念でした。

(終演と思い退席する客もいる始末・・・)




最後に前奏曲(「マイスタージンガー」)を
演奏してくれたのでとっても満足。


管楽器がもっと力を見せても良いと思う。




気のせいか拍手もひと際でした。




























第1805回 定期公演 Aプログラム

2015年4月12日(日) 開場 2:00pm 開演 3:00pm

**********************
NHK交響楽団 第1805回定期演奏会
日時:2015年4月12日(日)午後3時開演
会場:NHKホール
指揮:セバスティアン・ヴァイグレ / バス:ヨン・グァンチョル
コンサート視聴 #8 / おしゃべりなコントラバス奏者_b0003330_1403678.jpg


曲目:-
*ベートーヴェン「交響曲 第6番≪田園≫」
*ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より「前奏曲」 「それはほんとうか」 「イゾルデの愛の死」
*ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より 「親方たちの入場」「ポーグナーのことば≪あすは聖ヨハネ祭≫」「第1幕への前奏曲」






ベートーヴェン (1770~1827)
交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」

 1808年12月22日に行われたこの交響曲の初演の時に使われた第1ヴァイオリン・パート譜に、ベートーヴェンは「シンフォニア・パストレッラ(Sinfonia Pastorella)あるいは田舎での生活の思い出。絵画というよりも感情の表出」と記している。また、初演5日前の『ウィーン新聞』に掲載された演奏会予告では、コンサート第1部の最後に演奏されるのは《交響曲、ヘ長調。田舎での生活の思い出》と題されている。さらにこの作品の作曲に使っていたスケッチ帳にも「性格交響曲(Sinfonia charakteristique)あるいは田舎での生活の思い出」と記している。なぜここまで、絵画的描写ではなく感情の表現ということを強調しなければならなかったのだろうか。しかも、この作品では後掲するように、5つの楽章それぞれに広く知られた標題(書かれた説明文という意味でのプログラム)が付けられており、ベートーヴェン自身がいかに否定しても、1809年5月に出版された初版譜(パート譜)タイトルに「シンフォニー・パストラーレ(Sinfonie Pastorale)」(牧歌的交響曲=田園交響曲)とあることから、これが標題交響曲の範疇(はんちゅう)に含まれるとしても不都合ではない。
 標題音楽という用語と概念は、1850年代にリストが自ら開拓創案した一連の「交響詩」を説明するために導入したもので、ベートーヴェンの《交響曲「田園」》(1808年)や、今日では標題交響曲の代名詞のように呼ばれるベルリオーズ(1803~1869)の《幻想交響曲》(1830年)初演当時でさえも「標題音楽」とか「標題交響曲」という呼称や概念はまだなかった。とはいっても、標題音楽の対立概念として考え出された絶対音楽という範疇(はんちゅう)で《交響曲「田園」》を捉えることにも無理があり、不自然さが残る。
 ベートーヴェンの主張には2つの意図が隠されているように思われる。後世の概念である標題音楽の美学的意味はともかくとして、実践的な音楽表現語法として、描写的表現を含む広い意味での標題音楽はルネサンス時代(さまざまなバッタリア=戦闘の音楽、カッチャ=狩猟の音楽等々)やバロック時代(たとえば、ヴィヴァルディのソネット付きヴァイオリン協奏曲集、いわゆる《四季》等々)から存在していたばかりか、かなり隆盛してもいたのである。ソナタ形式の発展と並行して、というより、それに伴ってさまざまな器楽ジャンルが開拓された古典派時代が、むしろ例外的に標題音楽から遠ざかっていたとも言えそうだ。そうした時代にあって、ベートーヴェンが考えていた作曲理念では、描写語法は高く評価できるものではなかったようである。ただ、ベートーヴェンも劇音楽、たとえば、バレエ音楽《プロメテウスの創造物》(1800/1801年)の序曲後の導入音楽では、《交響曲「田園」》の「雷とあらし」の原型とも呼ベる雷鳴の描写表現なども見られる。また、後年の管弦楽曲《ウェリントンの勝利》(1813年)では戦闘描写そのものが作品の前半を成している。つまり、ベートーヴェンも明確な物語性を表現する場合には描写表現を使っているのである。ただ、ベートーヴェンにとって交響曲はそうした対象ではなかったのである。
 もうひとつの理由は、おそらく、これが真意であろうが、当時シュトゥットガルトの宮廷楽長で、特にジングシュピール作品で人気のあった作曲家でありオルガニストでもあったユスティン・ハインリヒ・クネヒト(1752~1817)の作品とは次元の異なる作品であるという主張であったと思われる。クネヒトには1784年作曲の15の楽器のための交響曲《自然の音楽的描写》、1794年作曲のオルガンのための《雷雨によって妨げられた牧人の喜びのひと時》という作品がある。クネヒトの作品は作曲直後に印刷出版されており、かなり広く知られていたという状況から、ベートーヴェンがこれら2曲を知っていた可能性は高い。《交響曲「田園」》の5つの楽章に付けられた標題の流れや構成がクネヒト作品と相似しているため、ベートーヴェンは「自分の作品はクネヒトなどの当世流行の描写音楽とは次元の異なるものである」という自己主張であったと考えるべきだろう。

第1楽章 「田舎に着いたときの愉快な気分」アレグロ・マ・ノン・トロッポ ヘ長調 2/4拍子。
第2楽章 「小川のほとり」アンダンテ・モルト・モート 変ロ長調 12/8拍子。
第3楽章 「田舎の人々の楽しいつどい」アレグロ ヘ長調 3/4拍子。第4楽章へアタッカで続く。
第4楽章 「雷と嵐」アレグロ ヘ短調 4/4拍子。第5楽章へアタッカ。
第5楽章 「牧歌。嵐のあとの喜びと感謝」アレグレット ヘ長調 6/8拍子。

作曲年代:1807年暮れ~1808年8月、ウィーン
初演:1808年12月22日、アン・デア・ウィーン劇場で。ベートーヴェン自身の指揮による

(平野 昭)







ワーグナー (1813~1883)
楽劇「トリスタンとイゾルデ」― 前奏曲、「それはほんとうか」、イゾルデの愛の死

 1849年、ドレスデンの三月革命にあたって、リヒャルト・ワーグナーは革命側に荷担した。ワーグナーは当時、同地の宮廷楽長、すなわち体制側の人間であったにもかかわらず、反体制側を後押ししたため、チューリヒをはじめとするスイス各地やパリなどで、10年以上に及ぶ亡命生活を強いられる。ライフワークたる《ニーベルングの指環》四部作は、一括上演どころか、完成の見込みすらまったくたたず、さしあたって「手軽に上演できる作品」を作曲する必要に迫られたために、《指環》の作曲は3作目となる《ジークフリート》第2幕で中断してしまう。「手軽に上演できる作品」として作られたはずの《トリスタンとイゾルデ》ではあったが、ワーグナーの手にかかると、これも空前絶後の壮大な作品へと変貌(へんぼう)してしまうのだった。
 楽劇《トリスタンとイゾルデ》は、チューリヒの絹織物商オットー・ヴェーゼンドンクの妻マティルデとの情事によって霊感を受けて作られたとされる。トリスタン=ワーグナー、イゾルデ=マティルデ、マルケ王=オットー(あるいはワーグナーの妻ミンナか)と考えれば、《トリスタン》は、作曲家が自己の体験と思想を音楽に封じ込めた自伝的な作品として解釈することも可能であろう。
 1858年、ワーグナーはマティルデやミンナといった、すべての人間関係のしがらみを断ち切るようにヴェネチアへと逃れるが、あまり作曲ははかどらず、結局ヴェネチアからスイス・ルツェルンへと戻り、翌年、孤独な環境で作曲を終えた。完成後にウィーンで計画された初演では、リハーサルが延々と繰り返されたが、曲のあまりの難しさと、歌手が非力だったためにキャンセルされるという憂き目を見る。
 初演は、貧窮のどん底にあったワーグナーを、即位したばかりのバイエルン国王ルートヴィヒ2世が招聘(しょうへい)するという「奇跡」の起こった翌年の1865年に、ミュンヘン宮廷歌劇場で行われた。曲の長大さに辟易(へきえき)する聴衆が多い中にあって、ワーグナーが理想のトリスタンと褒め称(たた)えたルートヴィヒ・シュノール・フォン・カルロスフェルトの絶唱によって、初演はまずまずの成功を収めたとされる(この初演後、カルロスフェルトは急死してしまった)。
 第1幕冒頭に置かれた〈前奏曲〉では、チェロによるトリスタンを表す動機と木管によるイゾルデを表す動機が組み合わされ、この2つの動機が「トリスタン和音」(ヘ-ロ-嬰ニ-嬰ト)と呼ばれる、従来の音楽の枠組みを超えた和音でつながれている(この全体を「憧憬(しょうけい)の動機」と呼ぶこともある)。「トリスタン和音」と呼ばれるこの4つの音の組み合わせはこれまで様々に解釈されてきたが、はっきりとした終止感を持たない響きによって、後年、20世紀の音楽に多大な影響を与えたことは疑いがない。第1幕ではイゾルデが、みずからの許嫁(いいなずけ)を殺したトリスタンに贖罪(しょくざい)を迫る。そしてふたりはともに毒杯をあおるものの、侍女ブランゲーネによってすり替えられた媚薬(びやく)を飲み、この世では成就し得ない、許されぬ愛に苦しむことになる。〈前奏曲〉冒頭は、この場面の音楽を、凝縮して再構成したものである。次から次へと「嵐のように高まる激情」は、決して終止することなく展開する音楽によって描かれ、最高潮を迎えた瞬間、もとの「トリスタン和音」へと戻ってしまう。そこには、19世紀を席巻(せっけん)したソナタ形式に典型的な、主題の発展と止揚という「進歩史観」は見られない。
 第2幕、トリスタンとイゾルデのふたりは人目を忍んで逢瀬(おうせ)を愉しむが、その現場に家臣メロートに連れられたマルケ王が踏み込む。マルケ王が歌う〈それはほんとうか〉では、裏切った妻と甥(おい)を責めるというよりは、おまえの勧めに従ってイゾルデを娶(めと)ったのに、どうしてこういうことになってしまったのか、という戸惑いのほうが際立つ。ふたりの愛を描く音楽とはまったく異質の、低音で隈(くま)取られたオーケストレーションによって、その陰鬱(いんうつ)さはよりはっきりと聴き手に届く(なお、このマルケ王の独白の後に、再び前奏曲冒頭がほぼ同じ形で、トリスタンの歌とともに繰り返され、愛し合うふたりがマルケ王の嘆きをまったく理解できなかった、理解しようとしなかったことが暗示される)。
 第3幕では、メロートの剣をわざと受けたトリスタンが、その傷を癒やすことのできるイゾルデの到着を待ちわびるが、その到着とともに息絶えてしまう。イゾルデはこの世(昼)ではなく、あの世(夜)の世界で結ばれる運命を〈愛の死〉で歌いあげ(今回は管弦楽版で演奏)、そのままイゾルデも息絶える。〈前奏曲〉ではっきりとした解決を見せることのなかった音楽は、2小節ごとに転調を繰り返す。ドラマの中では「昼」から「夜」への移行、現世からの離脱というキーワードで表象されたふたりの愛は、やがて「宇宙と一体」となり「おぼれて」いく、と歌いあげた後、ロ長調の主和音によって、作品はようやく最終的な解決地点を見出すこととなる。

作曲年代:1857~1859年
初演:1865年6月10日、ミュンヘン宮廷劇場、指揮ハンス・フォン・ビューロー

(広瀬大介)





ワーグナー (1813~1883)
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」― 「親方たちの入場」、ポーグナーのことば「あすは聖ヨハネ祭」、(第1幕への)前奏曲

 《さまよえるオランダ人》以降の主要なワーグナー作品において、純粋に喜劇と呼びうる作品は本作だけである。だが、ワーグナー自身は決して喜劇を避けてきていたわけではなく、むしろ早い時期から、悲劇である《タンホイザー》と対にできるような喜劇作品の構想を持ち続けていた。これはワーグナーが終生の理想としていたギリシャ悲劇の考え方をもとにしている。
 最初期の台本草稿は、その《タンホイザー》の成立と期を同じくする1845年7月に完成してはいたが、その後に実際のマイスタージンガーたちの事績を調べたり、1849年におきたドレスデンの三月革命により亡命生活を余儀なくされたため、台本の改訂は1861年まで続く。その翌年に台本を書き上げ作曲に着手するが、チューリヒを離れたワーグナーは貧窮のどん底にあり、なかなか筆は進まない。1864年、バイエルン王国のルートヴィヒ2世がワーグナーを自国に招いたことで状況は一変。1867年には無事音楽も完成し、《トリスタンとイゾルデ》の初演に引き続き、翌1868年6月にはミュンヘンで、ハンス・フォン・ビューローの指揮によって初演された。
 《トリスタン》に比べると小さなオーケストラ編成ではあったが(ほとんど編成の変わらない作品として、ベートーヴェン《交響曲第6番「田園」》がよく引き合いに出される)、その作品規模や、歌手にかかる多大な負担を考えれば、大劇場といえども、決して上演は易しくないはずである。この作品がその真価を認められるのは、中規模の劇場での上演が続いた後のことであり、ウィーンやベルリンなどの大劇場で上演されたのは1870年になって以降のことだった。バイロイトでの初演は1888年、ワーグナーが亡くなって5年後である。
 舞台設定は16世紀半ばのニュルンベルク。第1幕では、ニュルンベルクへとやってきた、フランケンの若い騎士ワルター・フォン・シュトルチングが、金細工師ファイト・ポーグナーの娘エヴァを見初め、ふたりは恋におちる。だがエヴァはヨハネ祭の日に行われる歌合戦で、その勝者である「マイスタージンガー」の妻として嫁がねばならない。この日参集された会議では、マイスターのひとり、フリッツ・コートナーが、会議に出席する親方たちの出欠を確認する(〈親方たちの入場〉。作曲家自身が、歌の部分を省略した編曲を施している)。ポーグナーは、なぜ自らの娘を嫁がせるという決定に至ったのかをマイスター全員の前で説明してみせる(〈あすは聖ヨハネ祭〉。ここも作曲家自身の編曲による開始部・終結部が用いられる)。ワルターはにわか仕込みで、靴職人ハンス・ザックスの徒弟ダーヴィットから、マイスターたちがはぐくんできた「マイスターゲザング」の規則を教わり「マイスタージンガー」の資格を得ようとするが、同じくエヴァを狙っている市書記のジクストゥス・ベックメッサーの厳しい判定で不合格となってしまう。
 続く第2幕で、絶望したワルターはエヴァを連れて駆け落ちしようと試みるが、ザックスはこの企みを阻む。第3幕は聖ヨハネ祭、歌合戦の朝。ワルターはザックスの前で新しい歌を披露。その新しさに耳を奪われたザックスは、歌の規則を当てはめることで、新しい時代の芸術が生まれると示唆。エヴァは、すばらしい歌を歌えるようにしたザックスの好意に心を動かされるが、ザックスは「マルケ王のような結末を迎えたくない」とはぐらかす(ここで《トリスタン》のマルケ王の動機が演奏される)。
 歌合戦の行われるヨハネ祭の広場には、すでに多くの人々が集まり、マイスターも堂々と入場。ワルターが作った歌をくすねたベックメッサーがうろ覚えで歌い損じてしまったのに対し、ワルターは正しい歌詞によって、そして斬新ながらも規則に則った旋律で、見事マイスタージンガーの称号を得る。ワルターは称号など要らないと突っぱねるが、「マイスタージンガーの芸術に敬意を払え」と諭すザックスの忠告を受け容れ、その場の全員がマイスタージンガーの芸術とザックスその人を讃える。
 《トリスタンとイゾルデ》では、この世でかなえられないふたりの愛の形が半音階的な〈第1幕への前奏曲〉で描かれたが、本作の〈第1幕への前奏曲〉では、この作品全体を「要約」するかのように、(《トリスタン》では意図的に放棄した)全音階的なソナタ形式の枠組みの中で作品世界の全体像が語り尽くされる。冒頭に堂々と登場するマイスターの動機(ハ長調)が、ソナタ形式における提示部の第1主題とすれば、第2主題にあたるのは騎士ワルターとポーグナーの娘エヴァの愛を表す動機ということになるだろう。中間部となる展開部では、このマイスターの動機が木管によりおどけた調子で演奏され(変ホ長調)、書記官ベックメッサーの妨害にもめげないふたりの愛の強さが描かれる。再現部となる最後の部分では、この愛の動機がマイスターの動機によって下支えされながら多声部の音楽として進行し、ふたりの愛がザックスの自己犠牲、そしてマイスターとしてエヴァを愛することによって成就することが示される。《トリスタン》の〈前奏曲〉では第1幕のクライマックスの音楽が用いられたが、本作の〈前奏曲〉ではかなりの部分が第3幕幕切れの音楽を踏襲しており、長大な音楽の最初と最後を対称的に結びつけている。

作曲年代:1862~1867年
初演:1868年6月21日、ミュンヘン宮廷劇場、指揮ハンス・フォン・ビューロー

(広瀬大介)
by tukasa-gumi | 2015-04-18 14:00 | 音楽 | Comments(0)
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