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『ユダヤ人として抑留された』とフリーメーソン/ 朝日新聞
先日の朝日新聞に興味深い記事が載っておりました。

『本軍占領下のジャワ島で「ユダヤ人として抑留された」』 
という記事なのですがその文中に、
「フリーメーソン会員には赤いバッジが着けらていた・・・」
というものです。


そして当時の抑留所の見取り図も載っておりました。




河豚計画や「杉原千畝のリスト」などが頭にありましたので
ヘェ〜 と思ったしだいです。

(ドイツ側の要請にも事実上実行いたしませんでしたし・・・)




それにしてもフリーメーソンを特定視していたとは・・・
そして『赤いバッジ』 これまたグッと来ますねェ〜。






             ーーーーーーーーー

世界発 2013
日本軍占領下のジャワ島「ユダヤ人として抑留された」 
2013年7月24日


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             ーーーーーーーーー    記事全文は下段に。







1943年に毎日新聞社主催、
日本の内閣直属の情報局が後援をした
有名?な 朝日新聞の広告です       昭和18年1月16日付4面
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【特別付録】

 【慈善か偽善か】 フリーメイソンの宣伝・広報番組 01/11

























出張先で知り合ったオランダ人女性からメールが届いた。「インドネシアにいた子どもの頃、ユダヤ人ばかりの抑留所に入れられていた」。第2次世界大戦時、日本軍による占領下のインドネシアにオランダ人らの民間人抑留所があったことは知られている。だがユダヤ人ばかりの抑留所があったとは初めて聞いた。取材を始めた。


『一日の食事、お玉2杯分』

-証言-

女性はオランダ・アムステルダムに住む元高校教師のアネルッツ・ベルトハイムさん(78)。自宅を訪ねると、母親の当時の日記を語り始めた。

生まれたのは、オランダが植民地支配していたインドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)。父は法律学校長でユダヤ人。母は非ユダヤ系だった。

1942年3月、日本がインドネシアを占領すると父は抑留所へ。ベルハイムさんたちは自宅での生活を許されたが、44年1月になると母と姉、弟と一緒にジャカルタの婦女子抑留所に入った。9歳だった。

「ユダヤ人の血が一滴でも流れる者は名乗り出よ」。抑留所で日本人からそう告げられたのは44年9月。母は日記に「私は非ユダヤ系だが、子どもたちと離れないために、ユダヤ人リストに名前を書いた」と記した。同年12月、ジャカルタからジャワ西部タンゲランの抑留所に移送された。抑留所にいた人たちの3分の2がユダヤ人。残りが結社フリーメーソンの会員や旧支配層だった。

部屋の窓には鉄格子があり、幅約50センチの板がベッド代わりに並べられていた。

ベルトハイムさんは「待遇は以前より明らかに悪くなった」と語る。

お玉1杯の食事は1日3回から2回に減った。女性は月経が止まり、子どもたちも成長が止まった。日常的に懲罰があり、日本兵への頭の下げ方が足りないと殴られ、抑留所内の全員が連帯責任で炎天下に何時間も立たされた。ベルトハイムさんは、隠して持ち込んだ紙切れと色鉛筆で所内の生活をスケッチした。

45年3月、別の抑留所に移送された。終戦から2日後の8月17日、食事がお玉2杯に増えた。夜になると外からインドネシア人のお祝いの声が聞こえた。

ベルトハイムさんは「日本人を恨んでいるわけではない。ただ、起きたことが日本はもちろん、オランダでもあまり知られていないことが残念だ」と話す。

『オランダに名簿や日記』


「ユダヤ人の抑留所」を裏付ける資料を捜した。
オランダの戦争資料研究所に、複数の抑留者の日記が保管されていた。43年からユダヤ人の隔離や抑留が始まったこと、ジャワ島西部チマヒの男性民間人向け抑留所に造られたユダヤ人棟が「テルアビブ」と呼ばれ、ユダヤ人やフリーメーソン会員には赤いバッジが着けられていたことなどが書かれていた。日本の憲兵に「ユダヤ人捜しに協力してほしい」と誘われたが断ったという記述もあった。

占領下のインドネシアの抑留所政策に詳しい内海愛子・大阪経法大アジア太平洋研究センター所長を訪ねた。内海所長がオランダの国立文書館でコピーした資料の中に、「猶太(ユダヤ)人並猶太系抑留者名簿」があった。

日本の国立公文書館には、BC級裁判で戦犯とされたジャワ憲兵隊元特高課長の供述調書の和訳文があった。この元特高課長は、部下が一般市民を拷問しているのを知りながら黙認した罪に問われ、死刑判決を受けていた。その尋問の中で、オランダ側検事が「43年にジャワ島ですべてのユダヤ人とフリーメーソン会員が不当に検挙された」と質問し、元特高課長は「軍司令官の命令があり、ユダヤ人らを一般住民から隔離した」と答えていた。

戦後、法務省職員が釈放された戦犯を訪ねた聞き取り調査記録も国立公文書館にあった。元戦犯の1人は特高課長について「ユダヤ系を弾圧し反感を買っていた」と語っていた。

朝日新聞が戦時中、ジャワ島で発行していたジャワ新聞をめくった。≪ユダヤ人とフリーメーソンが世界支配を企てている≫。特高課長はこうした論文を何度も寄稿し、インタビューに答えていた。
戦後、法務省職員が釈放された戦犯を訪ねた聞き取り調査記録も国立公文書館にあった。元戦犯の1人は特高課長について「ユダヤ系を弾圧し反感を買っていた」と語っていた。

朝日新聞が戦時中、ジャワ島で発行していたジャワ新聞をめくった。≪ユダヤ人とフリーメーソンが世界支配を企てている≫。特高課長はこうした論文を何度も寄稿し、インタビューに答えていた。


『なぜ隔離、解明これから』

-研究者-

内海所長は、これらの史料から「占領下のインドネシアに、ユダヤ人のための特別な抑留施設があったのは間違いないだろう」と話す。だが、何のために隔離したのかは不明だ。「日本国内でも当時、ユダヤ人の迫害事件が起きていた。占領地で差別がより強く出た可能性がある」と言う。

上海でも43年にユダヤ人の居住指定地域が設置されたが、無国籍で難民となっていたユダヤ人が多かった。指定地域外への出入りもできた。戦前日本のユダヤ人政策に詳しい丸山直起・明治学院大名誉教授は、インドネシアでは米英などの「敵国」以外の国やエジプトなど中東から来たユダヤ人も集められ、抑留されていた点が上海と異なると指摘。「日本のユダヤ人政策が一枚岩ではないことを示している」

現代史家の秦郁彦氏は、戦中の日本でユダヤ人やフリーメーソンが世界支配をたくらんでいるとする「ユダヤ陰謀論」が流行していたとし、「上海以外で、ユダヤ人に何をしたかは明らかではなく、興味深い」と話す。だが、信仰する宗教ごとに抑留した可能性もあり、「いまの資料だけで隔離がユダヤ人への迫害だとは言い切れない」と語った。

オランダでは70年代から抑留者の日記が出版されるなどしてきたが、注目はされなかった。オランダ国立戦争追悼委員会のエスター・キャプテン氏は「ナチスのホロコーストの陰に隠れ、ほとんど顧みられてこなかった」。05年にシンポジウムが開かれ、ようやく研究が始まったという。来年にはアムステルダムのユダヤ歴史博物館がインドネシアのユダヤ人について特別展を開く計画だ。

だが、オランダには日本語がわかる研究者が少なく、抑留者の日記の分析などが中心だ。取材した国内外の研究者は、元特高課長に関心を示した。なぜユダヤ陰謀説を広めたのか。ユダヤ人隔離の軍命令は本当にあったのか。研究と解明はこれからだ。
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by Tukasa-gumi | 2013-07-26 12:30 | 図書 | Comments(0)
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