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『自分的なルール/法則』/ 日記を読み解く
先日のつづきです。





あたくし中学生の頃、
気が向いた時だけ日記をしたためておりました。

(一週間に一回とか1ヶ月に一回とか ネっ)


まぁ日記とは名ばかりで、多くは
「○○が欲しい」とか自分の願望・欲望を
記しておりました。

(時としては その欲しい物の絵 も描いておりました)







・・・それらら数年後。

当時の日記が出て来たましので
何気に読み返して気がつきました。



それは日記に『欲しい』と書き綴った『物』を、
現在の私はほとんど手にしていということです。

(当時とは経済的・環境的に違うのである意味当たり前
 といえば当たり前なのかもしれませんが)



これにはビックリいたしました。

自分が欲しいと思っていた願望が現実化しているのですから。






しかし、すべてが現実化している訳では無かったのです。


そう、いくつかの『物』はまだ手にしていなかったのです。


まぁ100%はムリだよねェ〜。

などと思ったのですが、直ぐに気がつきました。




はて? どうしてなのかしらん?

何か理由でもあるのかしらん?


・・・考えた末にいたった結論は


・未だ手にしていいない『物』は
 現在も「欲しいなァ」と思っている『物』である。

・まだ私自身の中にそれに対する『欲』がる。

・『手にしている 物/事』は日記に書いたことを
  忘れている。





思い出すと、
日記に書いて『手にした物』はその『物欲』が失せ、
すっかり記憶に残っていない時に目の前に現れ、
手にしていたのです。

「ぁぁ、そういえば以前コレ欲しいと思っていたなァ」と
手にした後で思い出すのです。





これに気がついてからですね。

(わたし流に言うと)『宇宙』を信じるようになったのは。






つまり、
「欲しい 欲しい」 と欲がある内は不思議と
向こうから チャンス はやって来なく、

(あたしの場合は ネっ)



欲しいという欲が無くなると、(不思議なことに)
自分の目の前に現れ、それをつかむことが出来るのです。





これは『物』もそうなのですが、
『人』や『事柄』もそうなのです。



「いい人いないかなァ〜」などと思って
キョロキョロしている間は「待ち人来ず」なのですが、
普通に生活してるとチャンと向こうからやって来ます。





こればかりではありません。



その中学の日記には私の27歳までの人生設計が
書かれておりました。


これは自分のこれからの進路を二通りの箇条書きで、
「主役」と「主人公 」二通りの生き方をした場合

・職業の選択

・経済的な数字

・27歳時点での環境

などの願望が漠然と記されておりました。







結果、一年遅れの28歳でその『環境』がやって来ました。

(その後「主人公 」の生き方を選択しました、あたくし)


 






中学の時書いた日記を読んだことで、
『自分的なルール/法則』があるということが分かりましたので、
その後このルールをあまり無視しないように生活してきました。



(あと、『社会的なルール/法則』も勉強いたしました です)




以上の事は生活し選択する上でとても諜報いたしました。

現在の社会での基準・価値観と自分の基準・価値観の違い、
そして生活・・・・




この世界では理不尽なルールと真っ当なルールが
入れ合っているようです。

(理不尽なルールは 人 が作ったらしいですけど)






?・・・単純に考えてどうしてこのような
複雑でスッキリしない社会/次元があるのでしょうか?!






この存在意義さえ疑ってしまう私です。



ぁっ、話しがそれました。









バイオリンの話しから、
トンデモ話しになってしまいましたネっ。





未来を特定できるならば過去もしかりなハズで、
もしそうならば過去(も)・現在・未来は
自身で作りかえることができるハズです。

(ある意味、実際そうなのですけど・・)




・・ということは、過去・現在・未来というものは
実は無く、サンドールさんが言うように同時に 有る
のかもしれません。




ならば、なおのこそこの混沌とした私たちの存在する
世界必要なのでしょうか?



私たちの世界はいったい 誰のため の世界なのでしょうか?









もう一度考えて下さい。



意思ある世界の思考の過去/過程がこの3次元の世界ならば
この世界は存在する意味はあるのでしょうか?



『意思』あるモノは,ずーーーーっと先を行っており
私たちの次元はその彗星?の一瞬の軌跡にしかすぎないのです。





たしかにその意味/理由はあるでしょうけど、
存在は あたい する価値があるのでしょか?



『意思』あるモノからすればただの滴/過去です。






解りました、

過去で生きてるので ルールがある世界 なのですネっ。





この世界は現在と思われている過去の世界の軌跡なのです。



かくして、未来も過去も作り変えられない
不自由な過去形の存在なのです。


未来と過去にタイムラグがある世界は
やはり歪な 軌跡 でしかない事象なのです。


このような世界にいるので
ついつい惑わされてしまうのですネっ、



未来があるなんて。





ぁーーっ、
久しぶりにショックです。


実は 未来などは本当に(は)無い ということに
気がついてしまったことに。






夜空に一瞬輝き消滅する彗星の尾ひれ・・・


これをどのように受け止めたらいいのでしょう。




私たちは単にすでにある未来を追い求めているだけなのです。






だから このような世界 なのですね・・・っ。





未来から過去はあるけど、
過去から未来が(あまり)ないのが理解できました。







この手の話はつきることがないのですが、
今回はここまで。









あと「人はだれでも人生の内、3回はモテル時期がある」
というのが、私の持論です。









『尾ひれ』が新たな星々を生む などという、
慰めは論外です。
by Tukasa-gumi | 2013-07-11 01:32 | インナートーク | Comments(0)
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