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64の日・・・・・
今日は64の日だったのですねっ、
忘れておりました。



国内から海外に目を向けさせようと
しているような気がいたしました、ここ数年。






メモとエントリーの両方です。





以下は、
『中国共産党 支配者たちの秘密の世界』
  リチャードマグレガー著 小谷まさ代 訳

からの抜粋です。



64の日・・・・・_b0003330_1283139.jpg





        ーーーーーーー

・・・・
1989年、
大規模なデモ運動が
国中に広がり、
支持の基盤も
学生や労働者、
知識階級と幅広く、
デモの対処法をめぐって
党の上層部で意見が分かれた。



それらの記憶が今もなお
党内に根強く残っている。



そしてあまり知られてはいないが、
党の意識の中に深く焼きついたのは、
当時、PLA(人民開放軍)のなかに、
武力を行使して北京から
デモ参加者たちを追い払えという
党の命令に従うことを
拒否した指揮官や兵士がいたことである。



徐勤先中将は、
五月半ばに最初の動員令を受けた。
徐は市内への進軍の準備をし、
その経路や連絡地点、
撤退する部隊の集合場所などの
計画を練った。

しかし、当時の彼の言動の記録によると、
北京軍区の政治委員より
最終指令が下ったとき、
徐はこれを拒否したという。

北京に隣接する省に駐屯していた
第三八集団軍は、
PLAにおいて先駆的な軍隊であった。

朝鮮戦争では、
中国の軍(名称は「中国人民志願軍」)
として最初に参加した。
機甲部隊としても、
航空団や電子戦用部隊を備えたのも、
この第三八集団軍が初めてだ。
また、
首都の治安回復のために
配置された最初の軍隊でもあった。

徐勤先は六月四日の数週間前、
足の怪我のため入院した。
彼はデモ運動が拡大していくのを見て、
自分も学生たちの理念に共感していることに気づいた。
彼は最初、
怪我を理由に軍の指揮から外してほしいと願い出た。
受け入れられず強要されると、
命令をただちに拒んだ。
「どのような罪に問われようとも、
私は断固として、
自ら進軍の指揮を執ることはない。」
その後、彼は指揮官を解任される。

現在、徐の元同僚のなかには、
彼が命令に背いたのは
軍を北京に進軍させたあとだと言う者もいる。
ただ明らかなのは、
徐が六月四日のあと
軍法会議にかけられ、
この時期の一連の行動に対して
五年の刑を言い渡されたことだ。
(P175-176 )











・・・腐敗撲滅運動のように「トラが報告書を作り、
キツネが笑いながら手を叩き、
ハエが楽しげにブンブン飛び、
ネズミだけが通りで恐れおののく」
(p258)

実態があることは書けても、
トラやキツネが具体的に党幹部の誰であるかは、
明らかにすることもできない。

それどころか、そのトラやキツネはインタビューに答えて
「改革開放の時代を維持しているのは、
莫大な数の党の中堅幹部だ。
汚職によってこの体制は一層盤石になる」
(p259)



        ーーーーー








       

以下は『世界新聞網』から抄訳・抜粋です。

       ーーーーーーーーーー

六四抗命將軍徐勤先:不悔
大陸新聞組香港15日電
February 15, 2011 06:00 AM


ニューズ・オブ・ザ・ワールドネット
64命令を拒絶する将軍の徐勤先:悔いません


64の日・・・・・_b0003330_1847783.jpg




・・・・報道は、22年前に
(すぐ64が命令を拒絶して部隊が都に入って
学生を鎮圧することを率いることを拒む)
あの事に対して何の考えがあることに尋ねられますか?
と指摘しています。
後悔するかどうか?
彼の口ぶりが薄くて必ず言います:
「すでに過去の事、どちらでも良く後悔しました。
すでにしました!さもなくば(当時)はしないでください、
後悔は何もないことをしました。」

彼は当局がまた彼の軍職を保留することを漏らして、
彼に軍職の待遇をあげて、
「私の生活は悪くありません。日は毎日毎日過去です、
私のこれがもうなくて彼らの(当局)に
面倒を誘発することを望みます」。

・・・・・



      ーーーーーーーーー









  wikipediaではこう記されております

       ーーーーーーー

徐勤先(1935年- )は山東省莱州市出身。

中国人民解放軍少将。
1950年に朝鮮戦争の志願兵に入隊を試みたが
年齢を理由に拒否されたものの、
血判書を書いてようやく入隊が認められる。

1984年には華北軍事大演習の指揮者の1人となった。
1987年から第38集団軍の軍長(司令官)。中将。
1989年5月19日、北京市内に戒厳令が布告されると、
入院していた彼に中央軍事委員会から北京市内に
進軍するよう命令が下ったが、

「人民に武器を向ける事は出来ない」
と署名を拒否して軍長を解任され、軟禁状態に置かれた。

天安門事件の後に党籍を剥奪され、
軍事裁判で禁固5年の刑を受け、
秦城監獄に収監された

その後処刑説、病死説などがあったが、
2011年2月、香港のリンゴ日報の取材で
当時の行動を後悔していないことを語った。

副軍(副司令官)級の年金が支給されており、
「生活は中々良い」と述べている。
なお、解放軍大将を務めた徐海東は父親であると、
天安門事件当時噂されたが、実際は農家出身である。
現在は出所後に当局から手配された
河北省石家荘市で暮らしている。

       ーーーーーーー






?『中国共産党解体で中国が民主主義国家に』?
/ before its news

by Tukasa-gumi | 2012-06-04 18:58 | 図書 | Comments(0)
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